大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

松山家庭裁判所 昭和43年(家)64号 審判 1969年2月28日

申立人 里見清子(仮名)

申立代理人 里見元治(仮名)

相手方 平光(仮名)

主文

相手方は、申立人に対し、財産分与として、金一〇万円を本審判確定と同時に、金一〇万円を昭和四四年六月末日限り、金一〇万円を同年九月末日限り、金一三万円を同年一二月二五日限り、いずれも、当裁判所に寄託して支払え。

理由

(申立の趣旨)

相手方は申立人に対し財産分与として相当額の金銭の支払をせよ。

(申立の実情)

一、申立人は昭和三一年一月二七日相手方と婚姻し、爾来九年余夫婦生活を送つてきたが、昭和四〇年八月二六日協議離婚をした。

二、申立人は相手方の親とも同居し、主婦としての家事を処理したうえ、農業にも従事し、相手方およびその家族の財産の増加に寄与・貢献したので、相当額の財産分与を求める。

(当裁判所の判断)

一  本件記録編綴の戸籍謄本、登記簿謄本、宮内調査官作成の各調査報告書、○○町税務課長岡田精、城戸正志各作成の各回答書、精神病院○○園院長植田孝一郎作成の回答書、里見元治作成の土地台帳謄本写、相手方の提出した給料支払明細書、○○保健所からの取寄記録の写、および参考人市川武、大川昇ならび申立人と相手方の各供述(但し、相手方については、第一回ないし第三回)を綜合すると、大要、次のような事実を認めることができる。すなわち

(一)  申立人と相手方とは、市川武の媒酌で昭和三〇年五月一日結婚式を挙げて、相手方の現住所で同棲を始め、昭和三一年一月二七日付で婚姻届をなした。相手方は当時○○園芸協同組合の理事を兼ね、家業の密柑栽培農業には、父平勇と共同で当つていた。申立人は家事の傍、馴れない農業の手助をし、また、眼の不自由な父平勇の世話や、当時中学生であつた義妹の世話など、それ相当の妻としての努力をつくした。もつとも、申立人は、いわゆる木の芽時といわれる四、五月頃になると、毎年、精神的に若干不安定になる傾向があり、相手方は申立人の気分に応じて静養させたり、一時実家へ帰したりなどしていたが、その時期を過ぎると、申立人の健康も元に戻つて、妻としての勤めを十分尽していた。

(二)  かようにして、若干の起伏はあつても、平穏な夫婦の生活が続いていたが、相手方が昭和三八年四月○○町長に立候補したときに、不幸な事件が起つた。すなわち、申立人が、相手方の選挙運動中、誤つて、相手方の手帳(これには、相手方が預金三〇万円を引出した旨の記載があつた。)を落したところ、これを反対派の運動員に拾得されて、恰も相手方の選挙運動費に疑があるように悪宣伝された。選挙の結果は、相手方が七〇票の差で敗れた。申立人は、自責の念にかられて、いわゆるノイローゼ気味となり、同年六月二一日から同年七月一二日まで○○市内の○○病院において入院加療をうけた。退院後、再び相手方と同居したが、申立人は、内心で相手方から気狂い扱いされていると考えて、夫婦としての情愛は旧に復さなかつた。

(三)  翌昭和三九年四月、申立人は相手方のすすめで自動車の運転免許を取得すべく、自宅から○○市内の○○自動車教習所に通いはじめ、同所の教官島村某と知り合つて、同年五月、夫に無断で外泊し、同人と○○市内の旅館で一夜同宿した。相手方は、申立人の父とも連絡し、相手方の捜索に努めた結果、上記の事実を知つた。相手方は、申立人の父とも相談して、申立人を暫く実家に帰させたが、再び申立人を呼び戻して、同居するようになつた。

(四)  昭和四〇年二月頃、申立人は相手方および義父勇との折合を悪くして、実家に戻つたが、その頃から申立人には常軌を逸したと考えられる行動が目立つようになつた。たとえば、相手方の預金を無断で引出したり、相手方の不在中に、深夜訪ねてきたり、それまで親しくしていなかつた○○病院を訪ねて泊めて貰うなど、行動に落着きを欠き、いわゆる無軌道な行動が目立つようになつた。そのため、相手方は申立人と離婚することを決意し、仲人の市川武にその旨を伝え、同年四月初頃、○○市内の○○食堂において、同人立会のもとに、申立人と相手方とが協議のうえ、離婚届に署名押印した。

(五)  ところが、その後も申立人の異常な行動が続くので、相手方は、世間態も考えて申立人を精神病院へ入院させようと決意し、昭和四〇年四月一五日申立人の父母には何ら通告しないで、医師と相談のうえ、申立人を精神病院○○園に入院させた(この入院は精神衛生法第二九条による措置入院であつた。)。申立人の病名は、診断の結果、中等度の躁病で、その後同院で治療が行われ、同年七月二九日寛解となつて、退院した。

(六)  退院後、申立人は、再び相手方と同居することなく、実家へ帰り、同年八月二六日夫から離婚届が出された。そして、同年秋に、申立人の父が相手方宅において、申立人の嫁入道具等を引取つた。その際、相手方は、申立人の父に対し、毎月金五、〇〇〇円ずつを当分送金することを約した。しかし、相手方は、その後六ヵ月分として金三万円を送金してきたのみで、一方的に送金を打切つた。

(七)  その後、申立人は、結婚前に覚えた踊りで身を立てようとして、○○○市内の料亭に出たが、二、三ヵ月でやめ、その後は、精神的にも安定しないため、実家で父母と同居し、医師の治療をうけながら、静療している。他方、相手方は、昭和四一年一月三一日妻悦子と再婚し、翌昭和四二年四月一日に特望の○○町長に就任し、現在に至つている。

(八)  ところで、財産関係は次のとおりである。申立人については、みるべき財産なく、収入もない。相手方は、固有財産として、山林五反三畝一一歩、田三畝(総額約二〇万円程度)を有しているが、この財産は、申立人との協力によつて取得したものではなく、父勇から贈与されたものである(もつとも、相手方の父勇は、広大な密柑畑を有しており、相手方がいずれこれを相続することが予測されるが、現在の段階では、財産分与に当つて、これを考慮することは許されない。)。

次に、相手方の収入であるが、農業収益として、父勇との共同経営とはいうものの、昭和四〇年度は金一三六万三、八〇〇円、昭和四一年度は金八五万九、四〇〇円の収入があるものとして納税申告がなされており、昭和四二年度以降は、町長に就任したため、農業収益の申告は、父勇の名義でしている。しかし、相手方の言によると、町長就任後も、農業の管理は、実質上相手方が当たつており、相手方の生活費の大部分は、農業収入で賄われているというのであるから、相手方は、昭和四二年度以降も相当の農業収益を得ていると考えられる。また、給与としては、前記協同組合理事として、昭和四〇年度に金八万二、〇〇〇円、翌昭和四一年度に金五万四、八〇〇円の収入をそれぞれ挙げており、昭和四二年度には、前記理事の収入と○○町長の収入とを併せて、金八二万八、三〇〇円を、昭和四三年度も同様収入として金一二八万八、二五〇円を、それぞれ挙げている。もつとも、相手方は、町長就任後、交際費として、月三、四万円かかるというが、前記農業収入があることを考え併せると、相手方には、ある程度の経済的余裕があると推測される。

二  以上認定の事実関係に照らしてみると、申立人と相手方とは、内縁関係を含めて、約一〇年におよぶ結婚生活を送つたことになるが、申立人の寄与にもかかわらず、相手方の財産が増加したとは認められず、また、町長就任も相手方との離婚後一年有余経た後であるから、これを申立人の寄与によるものとみることもできない。また、婚姻破綻の原因が、後記のとおり、申立人の責にのみ帰することのできない精神状態によるとはいえ、外形的には、申立人の常軌を逸した行動によるところが大きいと認められるから、いわゆる賠償的意味における財産分与を考慮することもできない。

しかしながら、前記認定の事実関係に照らして、本件婚姻の破綻の内面的原因を考えてみると、昭和三八年四月の手帳紛失事件を契機として、申立人が精神的安定を害ねたこと、しかも、相手方が申立人の精神状態についてその後十分な配慮をめぐらさずに、昭和三九年四月の恰度木の芽時(すなわち、申立人が精神的に不安定になる時期で、相手方もこの点を知悉していた。)に、自動車の運転免許をとらせようとしたため、これが申立人の精神的不安定に拍車をかけたであろうこと、このような精神的状態が教官との同宿という行為を誘発する素因となつたであろうこと、したがつて、その、相手方が申立人の行為を宥恕して、同居するようになつてからも、申立人の躁病的傾向が昂進して、無軌道な行動が繰返されたこと、そのため、翌昭和四〇年四月(これも木の芽時である)、申立人が精神病院に強制入院させられる破目になり、遂に同年八月二六日離婚の止むなきに至つたと考えられるのである。

このようにみてくると、申立人の異常行動は、昭和三八年四月以降、間歇的に精神的安定を害した状態のもとになされた可能性が大きいと推測されるのであつて、これを申立人の責にのみ帰するのは酷といわねばならないのであり、しかも、離婚時は、退院後一月余りで申立人が寛解状態にすぎなかつたのであるから、相手方は、離婚に際し、過去一〇年有余相手方およびその家族と協力して生計を営んできた申立人の予後の療養および生活費について、分相応の財産的出捐をなすなど適当な方策を講ずべきであつたというべきである。しかるに、相手方は、月五、〇〇〇円の支給を六ヵ月で止めてしまい、その後は当裁判所の命じた仮の措置に従つて、金二万円の支払をしたにすぎない。申立人は離婚後四年にならんとする現在、依然精神的に不安定な状態で、医療措置をうけている現状に鑑みれば、相手方をして、扶養的意味における財産分与をさせるのが相当と考える。もつとも、配偶者が離婚について有責であるときに、他方が扶養的意味における財産分与をする義務があるかどうかは一箇の問題であるが、本件の場合のように、配偶者の行為が外形的には有責とみられても、それが精神的疾患に多分に影響されていると認められ、しかもその疾患が離婚後も残存している場合には、少なくとも扶養的意味における財産分与を肯定すべきであると考える。

三  進んで、分与すべき額および方法について検討する。

まず、財産分与の基準時であるが、扶養的意味における財産分与については、事柄の性質上、離婚当時のみならず、その後現在および将来にわたる双方の一切の事情を考慮して定める必要があることは多言を要しない。したがつて、その基準時は、審判の場合は審判時(事実上は、審判資料の収集を終つた当時)であると解するのが相当である。

この観点にたつて、前記認定の諸事実を斟酌して考えてみると、相手方が申立人に対し分与すべき財産の額および方法は、次のとおりと定めるのが相当と思料する。

すなわち、申立人は、現在なお、定職につけず、精神的不安定な状態にあつて医療を要すると認められ、今後の見通しは予想できないが、本件の落着により、精神的安定が期待できないわけではなく、この点を相手方の資力、申立人の需要その他前記認定の諸般の事情を併せ考えると、相手方は、申立人に対し、離婚をした日の翌月である昭和四〇年九月から昭和四四年八月までの四年間、一ヵ月金一万円の割合による金銭の分与をなすのが相当であると認める。

してみると、その分与額は、総額金四八万円になるが、これから相手方が申立人に対し支払つている前記金五万円を財産分与の一部履行と認めてこれを控除すると、残額金四三万円となるが、その支払方法は、相手方の能力等も勘案して、主文のとおり、四回の分割払として当裁判所に寄託支払うこととさせるのが相当であると思料する。

よつて主文のとおり審判する。

(家事審判官 糟谷忠男)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例